2021年12月5日日曜日

母の車いすを押して教会礼拝


 来年の2月で、母のホーム入所から早2年たつのだが、パーキンソン病は進行性で、思うように体も動かず、歩くのも現在は車いすとなって、しゃべる声もくぐもって小さくなり、本当に聞こえない。何かをするにもすべて、他人の力を借りないと何もできないので、毎日非常に不自由である。

 パーキンソン友の会を通じて知り合い、大変仲良くしていた同年代の親友の方が、今年の春~夏??に急死してしまい、先日も駅周辺の買い物に付き添った時に、その話をしていた。

 心臓麻痺だったそうであったが、その友人が急死してしまったことについて、「ぽっくりいけてうらやましいわ。私ももう、早く終わりにしてしまいたい。」というので、そんなわけにもいかないのでこのままではちょっとまずい、と思ったのである。

 とにかく、時々外にでて日に当たらないといけないよと言って、時々外に出して日に当てることにした。のびのびと外の空気を吸って日に当たるだけで、気分が違うからである。

 その日に、教会がそばにあるので見てみたい、というので外側から見学しておいたのだが、本日は日曜礼拝の日だったのと、ホームのお知り合いからのおすすめもあって、時間に合わせ、子供も暇なので連れていき、3人でそちらを訪問した。讃美歌も交えながらヨブ記についての解説が聞けて、意外に理解が深まった。

 ヨブは自らを熱心な神の信者だと疑うことがないくらい熱心であったが、ひどい災難に見舞われた後で怒りや悲しみの中で神と向き合う。どんなにまじめで一生懸命な人間であっても、受ける災難については誰しもが同じくらい受ける、ということ。それと、自分は間違っていない、というのはただの自分の気持ちの投影にすぎず、自分は万全だ、正しいのだというのも、神の意志の前ではそんな思い込みもふっとびかねない、という啓蒙的な意味が解説に含まれていた。

 昔、一時期はキリスト教の学校に通ったものの、礼拝は抜け出すという不真面目な学生だったため、聖書のことにはてんで疎いのだが、礼拝して神父さんの解説を聞いていくと、聖書の意味がかなりわかっていくのだろうか、という感じであった。