2019年4月9日火曜日

親とのやりとりの面倒くささ

 新聞は、私は全く利用していないので、母が自分でとり、集金を支払ったり、読み終えたものを回収に出したりしている。回収に出すときにはやや重さがあるが、母のリハビリのためにも、できる範囲でそういったことはやってもらうことにしている。

画像は、イメージです

 「あのさ、新聞の回収、玄関の外階段のところに置いたからね。」というので、ウンとは返事をしたものの、「いやだからなに?」という素朴な疑問がわいてくる。

 置いたから、何?? 聞いたところ、新聞屋がもっていかないのは困るから、夕方になってもそこに置いてあったら困る、ということであった。
 いや、そうだとしても何?それは回収する側の責任であって。
私は何か気を付けないとだめなの?やらないといけないことってあるの?

 どうやら親としての気配りもあっての言動(到底、そうは見えないが)らしいが、それならそれで、私が言われて助かることはというと、何もない。回収に来なければ、親が新聞屋に電話しないといけないだけである。

 それは単に、私に対するアピールだよね?アピールされたからといって、こっちは何もできないし、単なるノイズに過ぎないよ。それって、「xxできたよー」と、親にアピールする子供と次元はかわらないよ?と言い返してやった。いやでも同居を続けていくと、こちらもだんだん言いたい放題にならざるを得ない。

 そもそも、大事なことのように言うことのほとんどが、どうでもいいことだから、肝心の話を聞くエネルギーが削がれちゃって、大事な話のほうが、いつもどうでもよくなっちゃうんだよね。ばあばの話はほとんどがノイズでできてるの。
 で、お父さんお母さんに子供がアピールするのと、話の内容は変わらないから。自分の子供だったらね、こちらもちゃんと話は聞いてあげるけど。

 そう言うと、気持ちの本質はそうでもないらしく口ごもるので、じゃあ、そんなに回収されないことが不安で不安でしょうがないわけ?と聞いたら、どうやらそっちのようであった。なんでそんなに不安が強いの?面倒くさい。と言ったら、年寄りとはそういうものなのだと。少しはそうかもしれない。ほかにもそういった傾向の人はいると思う。

 ああめんどくさい。そんなにいやならやめちまえ!という訳にもいかず、母の好きで購読している新聞なのだから、自分でできるのなら、後始末までやらないと余計に老化がすすんで良くない。

 気持ちを共有してほしいのはわかるが、人それぞれ考え方が違うもの。元来、こちらから見ていると、どうでもいいことにいちいちこだわる親と自分は、本当に親子だという以外にあまり共通部分が少ないと感じる。発達障害のあるなしで、程度が変わるのかはわからないが、どうやら、私が子供だった時からこの親は、「自分の考え方に協調してくれる味方」が欲しかったのである。そして、その格好の相手が私であったと。

 が、私自身、成人して社会人になり、20歳代後半位から客観的に親を見るようになり、ずいぶんと気持ちが冷めてしまったのである。途中、生きづらさを感じた結果、精神的に人を頼るのにも限界があって、自立して自発的にしていったほうがはるかにいいと思い、そう思えば思うほど、過去の自分の考え方や選択を否定してしまうこともあるし、母の考え方との距離がどんどん開いていってしまった。

 家庭の事情で久しぶりの実家での同居となったが、そこへもってきて、日々日常での感じ方を共有せよ、というのは無理難題である。
それでも決裂したり険悪にならないのは、お互いの良心や、妥協、といった大人の対応に大きくゆだねられている。