2019年7月6日土曜日

母の発達障害とアスペルガーについて、勝手に解説

アスペルガーについて、以前、TVでどういう感覚なのかを視覚化して紹介していた番組があった。はっきりとした語句を覚えていたわけではないが、まだら模様の感覚、穴ぼこだらけの感覚、というイメージで紹介していただろうか。

といっても、症状は人それぞれで、外界の刺激がきついと感じるある人は、視界がちらついたり、人の声がとても気になって長時間外に出られない、などの気の毒な状況であったり。

うちの母は、そうではないが、感覚が穴ぼこだらけである、ということには違いはなさそうである。

普通の人の感覚を平面に例えると、きっとこんな感じ。

 発達障害に無理解な人から見ると、得意・不得意、好きなこと嫌いなことに関して非常に選り好みの激しいわがままな人、ととらえられかねないほど対応が極端である。
 興味のあることに関してはおそろしく熱く語ったり熱中するが、興味のないことに関しては、理解力も集中力も限りなく低い。そして、偏りがある上に、物事全般に対して根気力・持続力がない。

 こだわりがひどいかと思えば、まったく感知していないこともある。センサーに穴が開いているのだろう。(全然気づかないし見ていない。幼少時に私が母に、この親はこちらを見ていないな、とはっきり感じたのは、ここらへんからくるものだろう)

 大好きなことは、電気もつけずに真っ暗にしても一向に気にせず作業に没頭するが、その反面、嫌いなことや苦手なことからは極力逃げる。
 そしてこちらがそばにいると、やってもらおうと声をかけてくるのである。また、人に丸投げできることがあると、完全に任せてしまいたがるのだ。が、そこですべての責任を放棄してしまうのはおかしい。任されたほうが、本当に丸投げされた気分で、不快に感じてしまうのである。感覚の共有がなく、一方通行になってしまう。
 
 発達障害が「嫌われ病」と言われるゆえんかと思われる部分もちらほら見え、実務レベルで対応する身内にとっては、やや面倒くさい母である。が、年齢なりには少しは対人法がわかっているのか、明るい、ノリがいい(ADHD面)部分で、どちらかというと愛嬌があるらしく、様子を見ていると外ウケはそこまでは悪くないかもしれない。

 しかしこちらは日々日常をともにしているため、いちいち真面目に向き合うとバカバカしくてやってられない。それこそストレスがたまり、心身をの健康を損ねてしまう。適当にあしらうか、体が動くのなら自分でやってね!と強く言ったり、このタイミングでxxを頼んできたり、xxするのはやめてくれ!などなど・・。
(教育した?かいがあったのか、親もなるべく、可能なら自分でやる、と決めて頑張っているそうなので、そこは評価しておくことにする。そして何よりも、年齢やら病気やらで、本人がトーンダウンしているため、私との実際の衝突はほとんどなくなっている。)


 さらに数字で例えると、母の集中力は、0%か100%になりやすいのである。なので、対応してもらえることもあったりはするが、理解力がない、能力がない、考えるということをしない、という状況も多くあったかと思う。
 母親がそれについて考えてくれる、という姿勢がないと、心を開いて話せなかったり、期待したいことをあきらめざるを得ない。そんなことがたくさんあった。思い返せば、私も気の毒な子供であったかもしれない。



 が、あちらは自分のセンサーが働くことに関しては、100%以上の集中力と密度で話しかけてくるから、一度話しかけてくるとものすごい力(引き込み力)を感じるのである。
 食事中に、話の冒頭部分から100以上の集中力でもって会話を投げてくるのである。ご飯を100%の力を使って食べる人はいないと思う。会話に応じると、本当に、こちらがごはんを食べる集中力をそがれてしまい、食事のペースに容易に戻れなくなるのである。母の力は相手の力を100制して、自分の力を100引き出す、という力である。一点にひっぱられるようなおかしな話し調子もおそらく、アスペルガーだと言える。

 さらに思ったのが、会話が説明文調なことが多い。どんなかと言うと、A is B. で終わってしまう。「誰々が、何々をした。」とか、「何々は、どんなだ。」調である。

画像は、イメージです。
今日はデイサービスに行ってこうだったのよ、と、うれしそうに話すのはきっと本人も楽しかったということで、大変よろしいのだが、こちらが知らない状況について、何々がこうで、と延々言われても、「ふうん」しか返す言葉がない。
 結局何なのだ、というオチもなにもない。母の話し調子もプラスされて、ただの報告、もしくは説明書を、私を見ながら喜々と読み上げているのと変わりがないのだ。つまり、食事中の会話としては、最悪なのだ。

 本人の気持ちを代弁すると、「私は楽しかったの。だから説明するわよ。あなたも一緒に楽しい気分を味わってちょうだい。」そんなである。だが、あまり興味のない話の説明で一方的に盛り上がられても、こちらはさっぱりだし、話がかみ合っている感じがない。とにかく、一方通行なのである。

 本人も言っていたが、「相手にわかってもらえないから、説明するべきだ」と思っているようなのだ。そして、活字の字面と話し言葉を同じものととらえている感覚である。だが、どんなに心がこもったものだとは言え、説明を聞かされてもそこに、会話の面白さがあるわけがない。
  感覚の破れた母の視野の中に、聞き手の反応を引き出す、というセンサーは存在していない。だから、はじめから一点に引っ張られるような話し方になり、一方的な説明文となる。つまり、今どき言われている「自閉症スペクトラム」が、まちがいなく現れているのだ。

 母親が、どうでもいい話題について、自分の言いたいことを子供に伝えるがために説明を駆使する。そんなことにどうして必死になるのか。ずいぶん変わっているというのか、そんなに必死になるなら、むしろだまっていてほしいのだが・・。その必死さにも疲れ、説明文を聞くにのも疲れてしまう。

 そういった母に二十歳台前半まではすっかり影響されていたが、途中から今までの自分から抜け出したいと思い、内省したり母に反発したり見聞を広げたり、家庭を持ったりし、母を客観視できるようになった。母の、特に娘に対する影響は、とてつもなく大きい。母娘関係のつまづきは、人生を狂わせるほどらしいのだ。ずっと同居していた場合は、なおさらだと思う。

 が、母に抗い続ける自分にしても、「母から育てられた事実と、その遺伝子がある」ことは絶対である。ということは、もしかすると自分も、気付かないところで何かがスッポリ抜け落ちている、かもしれない。