2022年9月2日金曜日

(六本木・森美術館)地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング を観てきました。・・その1「僕の街にあったシンデン」(青野文昭)

 シンデン=神殿?だろうか。神聖な場所ということだと思うが、神殿というと、一般的には無機質なイメージしかない。

が、ここには木のぬくもりがたくさんあり、生活感を多く残した空間があり、生きた者の感覚や、目線に合わせた感じがする。が、その感覚を与えておきながら、そこは霊となった者たちしかいない。彼らのための場所となっている。生きた者もホッとするような場所が、魂となった人たちにも同じだという感じがする。

生前の記憶が写真や生活用品などから見てとれるような感じの作品があり、それを見ることで、いわゆる「死後」について考えさせられる感じがした。

俗世間で言ういわゆる「死」を迎えて肉体を失ったあとも、やっぱりそれまでの日常と、同じ生活をしたい人もいるかもしれない。姿かたちを変えてひっそりと、そこに存在している感じがする。

(上記は完全に自分だけの受け取り方であり、写真へのコメントも完全に自分の視点である。)

人形と本が同化している。どこからが本で、どこからが人形か、じっと見つめてしまう。


何かの念や魂が転じて、妖怪となったのだろうか。

何を意味するかはわからないが、棺だろうか。

この大きなタンスの集合体にも、「なにか」が棲んでいる。
そういえば昔、祖父母とも一時期一緒に暮らしていたことがあった家の二階、階段裏の細い廊下というのがあって、タンスがずらっと並んで物置っぽかった。光が届かず暗かったなあ、というのを思い出していた。





後ろの人物は、このヘルメット(頭蓋骨の表現?)の持ち主なのかもしれない。おそらく体はもうない。どこか悲しげな表情。

以前の生活を思わせる断片的な品物。

かわいらしい女性の写真。空き缶はお供え物だろうか?写真はかつての姿をイメージさせる記憶だろうか。

これも魂のようなもの?だろうか。死後も何かにとらわれているようで顔が怖い。

死後、何か異形のものに変わっていく人も。

肉体を失っても、たくさんの魂がここにいる。写真の部分が生前の姿をイメージしているようで、生々しい。

使っていた生活品か。遺族によって神殿にお供えされたのだろうか。

木の根が張り巡らし、自然と一体化していく。


古びた神殿も、活動を止めた人の体も、自然と一体化していくという感じがする。

木製のタンスを見ると、なぜかホッとして心落ち着く感じである。






これも何者かが、異形のものに転生したのかもしれない。木の家具の中にすうっと消えていきそうである。