2023年4月25日火曜日

叔母の認知症

 


団欒室で席に着いたところ、叔母は、うつろな顔で一人、ボーっと座っていた。薬も飲んでいるのもあるそうだが最近は、半分夢うつつというのか、意識がやや遠のいている状態が多いということだった。それでも、会話が盛り上がってくるとそれに乗じて話に参加しようとしてきたが、話の内容はさっぱり支離滅裂で、主語も述語も関係あるようで関係のない言葉ばかりだった。

認知症だからという決めつけもしないほうがいいし、少しはわかってくれないのだろうかという気持ちから、「このお骨、誰のだかわかる?」という質問を投げかけたところ、わからないということだったので、だれのものかを教えたり、周りのみんなが誰かというのも教えたりしたのだが、本人に伝わったかどうかとか、記憶してもらえるかとなると、ますます怪しい。

口うるさい兄は、後になって、認知症の人は、すでにそんなものに対応する脳内の辞書が削除されているのだから、余計なこと言わなくていいんだよ、余計に叔母さんが混乱するじゃないか、と釘をさしてきた。混乱するかしないかまでは知らないというのは私の勝手な見解だが、わからないことを決めつけて勝手にやるなと禁じてくる、兄のいつもの対応もうざったく面倒くさい。

さておき、叔母の状態を兄が解説してきた。叔母が会話をしてくるのは、会話をするというプログラムだけが残っているから、相手がだれであっても関係ない。つまり、そのプログラムが残っているだけで、その動作を延々とやり続ける。その他の機能がぶっこわれて動かなくなっても。ゾンビの理念と変わらないのだそうだ。映画などによって表現されたゾンビは、人間としての理性も知性もなくし、ただ肉を食らう、ということだけのためにさまよいつづけて人を襲うばかりなので、たしかに他の機能はぶっこわれた肉食動物である。

(ここからは、不満事項)だが、誰だかわからないというのは仕方がないが、兄が命令するように、(常識の範囲で)こちらの言いたいことも話してはいけない、という相手なら、むしろ会話の邪魔なのでつれてこないほうがいい、という結論になってしまう。余計に先回りして、閉鎖的な方向にもっていくのはやめてほしい、と思うのである。もちろん兄の推測が間違っているという決めつけもできないが、一方的な言い分は本当に面倒くさい。命令ではなく、相手に考えさせる、ということをもう少ししたほうがいいのではと思うが、この母(思考のADHDが多分にあるので、場面によっては支配的に接さないと、こちらが疲れ切ってしまう)にしてこの子(自分も含め)あり、というのは否めない。